12人の宮司が江戸時代を生きました。関ヶ原の合戦を機に神主専一になり、京都吉田家の裁許状を受けるようになります。京都を往復し中央の文化に触れ、学問にも向かうようになります。元禄の頃、諏方則重は「秋田の学問は友斎より始まる」と言われた梁田友斎から崎門学を学び、自身も県内に多数の門人を抱えました。他社家の記録に「六郷の齋藤日向守藤原則重の弟子」等の記載があります。男鹿と矢島に石碑がある、と伝わりますが未確認です。この則重の時に姓を「諏方」から「齋藤」に改めています 。
後三年の合戦後諏方祝子として宮司家が始まってから600年の間に諏方家、守役の家、二階堂家、六郷家、一瀬家が融合して一つの家になったものを、則重が元禄の頃に「齋藤」という姓を選んで名乗るようになるのです。この証跡は「紋」に見ることができます。現在宮司家で使用する紋は三つあります。「梶の葉」は神紋・社紋として宮司の装束に付けられます。紋付や羽織の正式の場合は「三盛り亀甲の内七曜(六郷亀甲)」を使い、私的な場合は「一の角字(一瀬家紋)」を用います。尤も今では曖昧になってしまっています。以前は祭典の時に神社の参道に「梶の葉」の燈籠、社務所の玄関に「六郷亀甲」、自宅としての社務所勝手口には「一の角字」の燈籠を掲げていました。大正の頃に使われた布袋には「諏訪神社社務所用」という文字と「一の角字」紋が染め抜かれていますので、線引きはなかなか難しかったようです。ちなみに、分家の齋藤家の家紋は「亀甲の内に一の角字」を使っています。